2.5次元は文学にもなれる/舞台「文豪とアルケミスト 綴リ人ノ輪唱」

えれーもん観に行くぜ、という気概で行って、えれーもん観た、と思って帰ってきた。観ました。略称は「文劇」で行くわね。これは第3弾。めっちゃネタバレします。マジで死ぬほどクリティカルなネタバレをします!!!!!!!!

bunal-butai.com

私のスペックとしてはゲームは初期だけちょいちょい触った、文劇1がめっちゃ好きでその年の名作大賞(私の)になった、文劇2も観たがなぜかあんまり覚えてない、という感じ。推しはオダサクです。無頼派かわいい。

いやこれね、最初から激重のフラグは立ってたんですよ。吉谷さんのコメントこれだから。

 文学はその時代の世相を反映しているものと思います。当時の作家の生き様が色濃く作品に残ります。その中で現代を生き抜く為の大切なテーマが浮き彫りとなり、突き刺さる言葉が今を生きる我々の胸を響かせます。

我々はこの舞台を一つの文学として創作します。

侵蝕者と共に現代の困難に打ち勝つヒントとなり得るエネルギーに満ちた物語を作ります。

我々の作る動く文学作品をどうぞ、その目に焼き付けて頂ければ幸いです。

舞台「文豪とアルケミスト」北原白秋役は佐藤永典、室生犀星役に椎名鯛造(コメントあり) - ステージナタリー

 簡単に言うと「文学が全体主義(≒政府)によって意図的に消されようとしていて、とりあえずこのターンでは文学を守ることに失敗する、だが俺たちの戦いはこれからだ!(そして転生へ…)」っていう…っていう…。いや、重い。含みがなくても十分重いのに、当然この時期なのでコロナ禍の「不要不急」論が下地にあるから余計のしかかってくる。つーかまず消されかけたのが北原白秋江戸川乱歩、ともに「大衆」の支持を受けた作品というのもうまいよね…。んで「個」に響く作品を書く太宰がキーマンになるっつーね。思想のあるキャラ配置だ。

とはいえめちゃくちゃきれいなシナリオ・演出というわけではなく、正直よくわかんなかったり、やや急な箇所があるっちゃある*1。ゆえに私のこの「重い」は、このテーマをこんな真正面から描いちゃうのかよーーー!?という緊張感とイコールかな。めちゃくちゃ共感するとか、感動で打ち震えるっていうんじゃなくて、「うわ、これやっちゃうんだ!?」っていう。そうやってビビってしまったということは、私も思考停止の日和見主義者の素養があるということで、そんな自分にも「うわー」って思う、なんかそういう…そういう舞台だったな。

この作品でガン泣きする人がいるのも、白けて警戒してしまう人がいるのもわかる。私はどちらかといえば後者ではあるんだけど、でも、「どっちらけ」まで行かないのがすごい。言うたら文学賛歌、腹の膨れない文化を酸素に例えておきながら、文化は絶対的に正義・善なんだ!とは言わないバランス感がちゃんとあった。実際、文豪たちボロ負けしとるしな。人様の感想覗いてるなかで観た、3の太宰は無頼派の仲間のこともはるおせんせのことも口にしない=すでに彼らの文学は失われて、記憶も消されているのでは…という説が恐ろしすぎたよ…そ、そんな…無頼派あんなにかわいかったのに…。作品としての読み解きは当然文アル勢がうわてすぎるのでお任せします。さすが本読むジャンルの人…って感じでカッケーです。

んでまぁ、コロナ禍ですよ。席数が半分になってから観たのが刀ステ科白劇、ヒプステシブジュク、そしてこの文劇3なんだけど*2*3、それぞれがすごく象徴的というか、2.5次元ってスゲェなと思わせられる作品で興味深い。

2.5次元が特殊なのは、演劇が手段であり目的ではない、というところだと思うのね。演劇という様式を通して表現すべきものがある。それは表面的にはキャラクターのビジュアルだったり、原作のストーリーだったりするわけだけど、私が観た3作に関しては、また別の芯、別の目的があるように感じた。刀ステは変わってしまった「歴史」を記録に残した。ヒプステは(私たちが普通だと思っていたけれど、普通ではなくなってしまった)能天気で華やかな「エンタメ」を押し通した。そして文劇は、まさに時代を映す鏡としての「文学」を綴ろうとした。なんか、どれも2.5次元が「演劇をやるための演劇」ではないからこそ成立した作品に思えて、私やっぱ2.5好きだな、と思ったのでした。だって、キャラクターのビジュアルさえ作りこめば何をしてもいいってことじゃんねw

文劇3は文学だったのか、ということを考える。文学ってなんなんだろうね。3は、私が1を観て「めっっっちゃよくできてる!!」と感動したほどまとまってはいなかった、と、思う。一度じゃ拾い切れない伏線も多そうだし。でもねー、こうやって考えちゃうんだよ。私はこの物語をどう受け取ったんだろうって考えちゃう。それは文劇3があまりにも「この現実」に根差して作られたものだからでしょう。どこか・誰かの物語を安全な場所から消費するんじゃなくて、いま・ここにいる私に伸し掛かってくる。この同時代性こそ、文劇3が文学である証拠なのかもしれないな。

吉谷さんが開幕前にツイートしてらしたこの言葉。何も2.5次元でやらなくても、という理屈もわかる。わかるんだけど、観たあとは文劇じゃなきゃいけなかったんだろうな、とも思う。時代を映すのであれば、文学でなければいけないのだろう。そして文劇3を文学にするためには、ちゃんと魂が入っていなければならない。演劇の置かれた状況と文学の危うい在り方が奇跡的に重なってしまったからこそ、文劇は文学になれたのでしょう。

 んで、まぁ~~~~~人が死んだ(厳密には違うけど)よね!!!!!!なんと転生した文豪が全員死(=絶筆という消滅状態?)んだ。マジかよ。文劇、ひいては文アルが面白いのって、生死の概念があるところだよね…。なんせ文豪なもんで。もともと人で、すでにいっぺん死んでるもんで。刀剣乱舞との違いをあえて挙げるならこれでしょう。人が死ぬ2.5次元ガンダム00ぶりじゃないか!?w

1の時点で「あっ、これは死の概念がある世界観!」とハッとしたんだけど、それがまぁ如実で。文アルは“生と死”というテーマを切実に描けるのがいい。それにしても地獄よ。地獄地獄とは聞いていたが、終盤「なるほど地獄ー!」の連発だったっつーの。キャラが死んで、でっけー幕で「芥川龍之介没(没年付き)」って出てくるのヤバすぎるだろ!!!!と思ったんだけど(わりと興奮しました)、さらに「史実の没年順に死んでいく」という無駄ディテールで抜かりねぇ!!!と感動すら覚えた。推しの今際の際を目撃する体験is何。中也でちょっと泣いちゃった…。しかも「あ、さすがにもう死なないかな…」とちょっと安心した途端、残り全員死ぬ。しかも死んだ友に擬態した敵に殺されたりする。抜かりねえ。

んでオタクは何億回見ても「最終回のエンディングが第1話のオープニングと同じ」的なリプライズが大好物*4なので、ラストに興奮を隠しきれなかった。なんで何億回見ても興奮すんの?こんな常套ギミックで信じられないくらい救いを感じてしまったのだが???今度はいい館長と巡り合った結果が1、2なんだなあ、と思ったままでいさせて…。

うーん、すごいカロリー使う作品だし、手放しで何回も観たいものではないんだけど、でも、もうちょっと向き合うためにもう一度観ようかなあ、とも思っている。思い出されるフレーズは、「人の世は地獄より地獄的」。1のときは単なる芥川のキャラ台詞だったこのフレーズを「せやな」と思ってしまう現実よ。

芥川先生といえばめちゃくちゃエロかった喫煙お仕草がフェイスガードに阻まれてるのが!!!!これは!!!明確な悪!!!という感じでコロナへの新鮮な憤りを感じました。これだけ書いといてこのオチ。あ、あと白秋せんせの二丁拳銃は最高最高最高。闇落ちしてるとき、バカでけー二丁拳銃を腰から抜くのよすぎて笑った。

*1:席も!!!50番台だったしね!!!ステラの!!!

*2:感想は…書いてない…さぼった…

*3:しかも3作ともステラボールやんけ。こんなに嫌いなのに!!

*4:タイトルも「カノン」ですしねー!!やっほーカノン!刀ステ悲伝ぶり!